3.28.2011

シアトルにて京都を想う

僕は京都が好きでわりとよく行くんですが、


なかでもお気に入りは竜安寺の石庭。


ほとんど毎回立ち寄ります。




敷き詰められた白石の上に


15個の石が五ヶ所くらいに点在してるだけの一見普通の庭なんですが


初めて行ったときからなんでか魅了され


何度見てもその感覚は未だに枯れない。





















この石庭



どこ角度から見ても15個の石を一度に見ることはできない



といわれていて(なんかある一点からは見えるという説もあったりしますが)、


拝観にいくと、まぁ全部の石を見れないかと


みんなお寺の縁側を


あちこち動き回っているわけです。




すごいシンプルで、何時間眺めていても飽きがこない。


石庭を囲む塀や木々もまたよくて、


午前中早い時間とか人があまりいないときは


本当に閑静な世界です。(もはや現代社会では娯楽になってしまったのか。)




で、なんでアメリカまできてこんなこと書いてるのかっていうと


昨日書いたようにイスラエル人とか


他にも色々なバックグラウンドを持つ人と


話をしていて


ふとこの石庭を想ったから。



以前石庭を眺めながらこんなことを考えました。


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箒目が波紋のように広がる白石は海原で(これはよくいわれてるみたい)



無造作に散りばめられた15個の石は


世界に混在する様々な文化とか言語とか価値観。




だけどそれらは一度にすべてを見ることはできない。


どこかを見ようとすれば、かならずどこかを見失う。





大切なのは

自分が見落としている何かがあることに気付くこと。




様々な文化とか価値観がある中で


自分が生まれ育った文化が染みついていたり、


特定の価値観、宗教観に魅了されたり、


あるいは


自分には絶対に受け入れられないと思うような価値観にぶつかったりする。





意識的に動く前に


先天的あるいは後天的に


すでに染みついている自分の価値観、文化に


愛情を注ぐのは素敵なことだし、





すべての感性を享受することなんて


不可能で、それ以前に意味をなさない。










自分が生きている間に触れることのできる


文化、価値観、宗教観、生き方なんてほんの一部。



それを無理して自分に取り込もうとする必要はない。




でも、






自分には見逃している世界がある。



知らない文化がある。



想像もできない価値観がある。






それに気付けるかどうか。





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ソクラテスの



I know nothing except the fact of my ignorance.(無知の知)



じゃないけど




そんな教訓を石庭は与えてくれたように思う。





こうして実際に多文化の(といってもこれもまた部分だが)


中に放り込まれた今、


数年前に石庭を前に思った感覚が


蘇ってきた。






死角に盲目にならないようにしなくては。








それにしても、やっぱり自分と全く違ったバックグラウンドを持った人と話すのは


刺激的。



そういえばリビアから来ている留学生もいるんだけど、まだ話していない。


今度話してみようっと。








ちなみに今日はErika(去年のAIKOM生)と半年ぶりの再会。

シアトルを案内してもらいました。









というか、Robart(ノルウェイ) と April(フィリピン)が結婚するという話を聞いてびっくり。

あの二人なら素敵な夫婦になるんだろうな。






今日は雨でかなり寒かったけど、夕日がきれいでした。

写真はキャンパスのジョージ・ワシントン。
















明日からようやく授業です。

それでは。


1 件のコメント:

  1. やすー!!!!!

    の竜安寺の見方、素敵。

    アメリカなんていったら15個どころか100個くらい石ありそうやけど存分に視野を広くしてきちゃってください^^

    でも、やすの価値観も見失わないように、大事にしてね

    ではではブログ楽しみにしてまーす

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